グループホーム建設 住民と対立

尾張旭市内で精神障害者向けグループホーム建設の反対運動が起きている。偶然、自分の町内であったため、図らずも私はその運動に巻き込まれた。

住民側意見を要約すると「精神病の人が外に出歩いては夜眠れない」「小さな子供たちが安心して遊べない」「老人介護施設ならともかく精神障害者施設ならよそでやってくれ」「我々の資産(土地)価値を下げる行為だ」など精神障害者への偏見のかたまりだ。

そ んな差別排他的発言のつど、住民側から拍手が起こる。住民全てが反対を唱える中で施主(事業主)だけが孤軍奮闘する、まさに多勢に無勢。精神科看護師の経 歴を持つ施主は、精神障害者の特性や彼らの受入れ施設の必要性を丁寧に説明するも、「若くて事業経験のないあなたが信用できない」「あなたに経営は無理 だ」「あなたは身勝手な人だ」と次は個人攻撃の応酬。どっちが身勝手なのか、子供の言い訳にもならない稚拙な言動である。

7回におよぶ集会の5回目から出席した私は、中立的なスタンスで着地点を見付けだそうとしたが、あくまで話は平行線のまま。あげくの果てに「多数決で決めようや」と鶴の一声ならぬズルの一声も。

群がらねば物も言えない上に正しいか否かではない「数の論理」、即ち日本の似非(えせ)民主主義の縮図がこんな身近にあった。「もう時間と労力の無駄使い(集会)やめちゃえば」と私は施主に言った。

原発、核廃棄物処理場、米軍基地など政府、族議員の利権保持に対し、住民の権利を守るために反対することは当たり前の道理。しかし、社会的弱者を守ろうとする活動に対し、住民の権利だけを主張するのは卑怯な集団エゴイズムである。  ( Sakai )

教育か調教か?

「パブロフの犬」は、犬にベルを鳴らしてから餌を与えることを繰り返した結果、ベルを鳴らしただけで唾液を出すようになったという有名な実験だ。つまり、動物には、生まれつきの本能行動(無条件反射)に加え、学習によって新たな適応行動(条件反射)が備わることを証明した実験である。パブロフ説によれば、本能、適応の両行動とも定型的で無意識の反射連鎖に基づくものだとしている。

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また、これらの行動の成果として生理的報酬(食欲、性欲、睡眠欲などを充たす)がもたらされることが条件となっている。調教の原理がそこにある。

「人間には教育、動物には調教」との認識が本来であるが、時に人間に対しても調教が必要だと私は考えている。なぜなら人間もまたヒトという動物だからである。ただし、ヒトは他の動物とは桁違いの学習能力を持っているため、その分、生理的報酬を得るための適応行動が複雑高度化し、ひいては生命を維持するための報酬が、逆に命を脅かすものになることもある。

たとえば、喫煙や飲酒がイライラを解消すると教わり、それらを常習するようになったが、やめたくてもやめられない人。このような依存症の人はどこにでもいるが、節度をわきまえないと命が縮まることを今さら再教育しても、既に適応行動が出来上がっているため体がいうことを聞かない。したがって、それを克服するためには古い反射連鎖を一旦断ち切り、新しい反射連鎖を作り直す必要があるのだ。すなわち、再調教である。医学界ではそれを「条件反射制御法」と呼び、既に薬物依存症等の治療に取り入られている。

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ところで、朝に一日分の食べ物を与え「朝三暮四」で食べなさいと日々言い聞かすも、いつも「朝七暮零」になってしまう利用者がいる。今彼に必要なことは教育か**調教か・・・?

**人間に対して調教とは何事か?との一般的ご批判はごもっともですが、それは「条件反射制御法」という非日常の世界をご存じない方のおごりだと思います。悪しからずご理解ください。

Sakai

2千年 : 46億年 = 14秒

約46億年前に地球が誕生し、約40億年前に生命が誕生した。そして、長い長い進化の年月を経て、約700万年前に人類が誕生した。これらの生物史は現代人の常識である。

ところが、宗教的制約や貧困などにより、それらの常識を知らされる機会がない、すなわ ち教育を受けていない人々がたくさんいることをパキスタンの少女マララさんは世界に訴えた。今なお、世界各地が、そして自らがイスラム過激派によるテロに 脅かされている。敬虔なイスラム教徒であるマララさんは、イスラムの現状をこう語った。「もしわたしがあなたの頭に銃をつきつけて、『イスラム教こそ本物の宗教だ』といったら、誰が信じるでしょう」

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宗教とは本来、人々を幸福にするためのものではないのか。もし、教育の権利や生活の自由を束縛しているものであれば、それは宗教ではない。神が7日間で天地創造をしたという作り話(神話)を信じるか信じないかは自由だ。また、必ずしも知識が幸福を生むとは言い切れない。だが、無知が不幸につながることはたくさんある。

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仮に地球史46億年を一年に置き換えると、ホモ・サピエンス以後の人類史20万年は約二十二分、宗教2000年の歴史は僅か十四秒足らずとなる。365日で数えると、ホモ・サピエンスは12月31日大晦日の午後11時38分に出現し、同日の午後11時59分46秒に宗教が生まれたことになるのだ。そう考えれば人類がいかに小さな存在で、宗教がどれほどあさはかなものかが見えてくる。

そして、生命史40億年を知ったとき、我々の命は限りない奇跡の連続で生まれたことがわかる。だからこそ、命は大切にしなければならない。

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決して多くの知識を得ているとはいえない私たちの施設利用者。彼らが幸せになるために、私たちは何をどこまで教えればよいかを常に考えていかねばならない。                (Sakai)

ノーベル賞に感動!

「青色LED」でノーベル物理学賞に輝いた三人の日本人。なかでもノーベル賞メダルを「ただの金属」と発言した中村修二教授が面白い。氏は10年程前からノーベル賞にもっとも近い男とTVなどで噂されていた。発明の対価をめぐり元勤務先の日亜化学を提訴した彼は、カリフォルニア大学での経験から、「米国では、優秀な人間はベンチャーを起こし、できの悪い人間ほど大手企業に行く」と日本の集団主義と高学歴優先体質を痛烈に批判した。気骨ある異端児、今もって健在。

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ノーベル委員会は三人の姿勢を、「受賞者たちは真実を求め、挑戦した。相当のリスクをとり、努力した。装置を手作りし、技術を学び、何千回も失敗を繰り返したが、絶望しなかった。最高水準にある実験室の芸術的な手腕だ」と絶賛し、「電気の恩恵を受けられない世界15億人以上の人々に光をもたらし、生活の質向上に寄与した」とその功績を評価した。今までの日本人受賞者で最高の評価といえる。

そして、世界中が絶賛したノーベル平和賞。パキスタンの17才少女マララさんは、私たちに無類のインパクトを与えてくれた。One child, one teacher, one book, and one pen can change the world.

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たった一人の挑戦と不屈の信念が、私たちの世界を変えられることを、今年のノーベル賞は証明した。来年は皆様にとっていい年でありますように!!

(Sakai)

はがゆい行政サービス

▽先月、尾張旭市にも待望の基幹相談支援センターが誕生した。一般の方にはなじみの薄い場所であるが、障害福祉サービス利用者にとってはそこがスタート地点となる重要な場所である。市役所内のそこに、専門の相談員を配置することで、迅速かつ適切に障害福祉サービスを利用できるという触込みだったのだが、現実には新規受給者証発行の際「概ね2週間必要です。」と以前同様の決まり文句。やれ相談員の予定が立込んでいるだとか、障害区分認定の委員会が今月は1回しかないとか、すぐにできない理由を先ず並べ立てる。片や我々施設は保護者への返事を、今日明日に迫られている。

▽そんな時、私はこう切返す。「相談や認定に必要な時間は一人当たり何時間ですか?」すると、「それぞれは1、2時間でも順番がありますし、認定委員会の招集時期も決まっていますので…」と来るのでまた切返す。「隣の名古屋市では2日で受給者証を作ってくれた。」するとまた、「それはおそらく特殊な例でして、また名古屋とはシステムも違いますし…」と来るのでまた切返す。「そもそも障害者一人ひとりが特殊な事情を持っている。そして、365日息をしている生き物だ。あなたたちの都合を言う前に『利用者本位』で仕事して欲しいね。」そこまで言うと2週間が3日になる。当たり前だ。1日は24時間ある。8時間寝たとしても16時間残る、相談員が2名いればロスタイムを見ても1日に10人はこなせるはずである。ちなみにソフトバンクの職員は、一人で1日に数十件以上の契約を処理している。

▽「コンピュータ1台、人10人分」と言われ、行政のスリム化が期待されてから20年余り。今や「コンピュータ1台、人1人」となって、人が減らないばかりか、コンピュータまでもが無駄に時間を潰している。行政サービスが民間のそれに近づく日は、はるか遠い先なのだろうか。

        (Sakai)

次世代に残す膨大なツケ-アホノミックス焼きイモ

▽  長久手-豊田間の県道を走っているとほぼ毎日のように目にする光景。我がもの顔で走る積載オーバーのダンプカー、やらなくてもいいような道路工事が招く交通渋滞。遭遇のたびに思わずボヤキが出る。「ダンプカーも道路工事も丑三つ時にしてくれ!」公共工事で潤うのは土建関係業者だけで、一般市民にとっては、はなはだ迷惑でしかない。あげくの果て、次世代に膨大なツケを残してしまう。アベノミクスは所詮アホノミックス、頭がイモだ。

▽  尾張旭の一等商業地にJAの支店がある。その広い駐車場が1/4以上埋まる状態を今までに見たことがない。店にお客が入らないからだ。さぞかし土地の賃料は高いだろうに、それでも店は平気顔で営業している。「ここは役所か?」と思わずボヤく。JAは、農業部門の赤字を金融部門が穴埋めしている構図であるが、資金源の元をたどれば紛れもなく我々の税金なのである。なぜ?と思う人は、軽トラならぬクラウンを乗り回して遊んでいる農家の爺さんに聞いてみるといい。JA組合員が与党族議員の票田であり続ける間は、税金の垂れ流しも続く。TPPでコメの関税を撤廃する荒療治でも行わない限り、日本の農業は目を覚まさないまま死んでいくだろう。そしてまた、膨大なツケだけが次世代に持越される。

▽  そんな中、我々は900坪の荒地を耕し始める。なぜ?モリコロ基金から耕運機代を補助してもらえたからだ。ささやかな出来事に大喜びの一日。            (Sakai)

福祉業界の不条理は医師が原因

福祉と医療、足して二で割ればちょうどいいと思う時がある。介護報酬欲しさにか福祉業界は利用者に媚びへつらう←利用者はお客様ではない!その反対に、思いのままに報酬を得られる医療業界は、平気で患者を足蹴扱いする←患者は医者の奴隷ではない!全てではないが、真正面から向き合っていないという意味で、当たらずしも遠からじ。

福祉業界では何かにつけ医師の診断書が必要となる。

しかし、とりわけ精神科医の診断書をめぐり、しばしばこんなことがある。同じ患者に対して複数の医師が診察している場合、それぞれの診断書の内容が違うのである。そして、患者やその家族はどちらか信用した方の医師にかかり続ける。

福祉施設の担当者は、利用者として少なくとも医師よりも長く本人と関わってきたはずなのに、仮に医師の見解に疑問を持ったとしても、決して反論することはない。信じるものは救われる?馬鹿げている、医療は宗教ではない。

外に表れる現象には、必ず何らかの原因がある。精神患者が外に表す臨床事例は数多くストックされているが、一人の患者に対して単に統計的フィルターで病名をつけているとしたら…、処方される薬の量が多く、いつの間にか医者の実験台になっているとしたら…。常にそんな不安がぬぐいきれない。

医師の資格さえあれば診断書などどうとでも書ける。目に見えない世界だから、外からは、たぶん内からも誰にも見えないから、フロイトもアドラーもユングも本当は解っちゃいない。

この不条理に対して誰も異論を唱えない業界は、まったくもってどうかしている。              (Sakai)

人間の能力はDNAが決めている?

サッカーワールドカップも終盤戦。予想通りヨーロッパおよび中南米勢がしのぎを削り合っている。日本のサッカーファンには悪いが、彼らと日本勢との段違いの実力差は否めない。

「組織力」とか「協調性」とかの理屈ではなく、ズバリ、個人力の差ではないか。個人力の平均値をチーム力とすれば、この先数十年、いや、ひょっとしたら永久にその差は縮まらないのかも知れない。

なぜなら、人間の能力の大半はDNAが決めているからである。例えば、世界の頂点に君臨してきた陸上選手のほとんどが黒人選手であることからそれが解る。何千年も前から獲物を追って走り続けてきた民族の歴史が「走りのDNA」を育んできたのだから、昨日、今日で走り込んだ民族に勝ち目はない。DNAには、個人の能力だけでなく民族の歴史も一緒に刻まれているわけである。

一方、日本人が世界に誇れるDNAがある。それは、四季折々の食材に培われた繊細かつ順応性の高い「味覚」である。日本人シェフがパリの名店で活躍したり、反対にフランスの味を日本に持ち込んだり、そして、寿司やラーメンなど世界至る所で日本食がブームになっていることがその証である。この際、あの「ミシュラン」にモノ申したい。「フランスのタイヤ会社に何がわかる?生魚を食ったこともない民族が鮨屋の良し悪しを語るんじゃない!」とね。

 ところで、春にオープンしたCafé Moonでは、中南米のソウルフード“ポンデケージョ”&“エンパナーダ”をメニューに加えることになった。ブラジル人 パトリシア とペルー人 カテリーナ の発案を月乃料理人カトウがアレンジした、言わば異民族DNAのコラボレーションだ。ワールドカップが終わっても、ここしばらく中南米ブームは終わらない。

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 (Sakai)

オヤジ族のボヤキ スマ~アホ!

私は、スマホという響きがアホっぽくて嫌いなので省略のセオリーに従い「スマフォ」と呼んでいる。そんなオヤジ族が、この先の人生でスマフォを使うことはまずないだろう。

時代をさかのぼること四半世紀、自動車電話から派生した携帯電話は国語辞典ほど重く大きかった。しかも、ショルダー掛けで携行したバッテリーの重さは広辞苑なみで、維持費も重く月10万円以上、ビジネスマンのハイエンドステイタスだった。

それからわずか数年、超小型化と低価格化により携帯電話はビジネスマンの必需品となっていった。

ところが、それから約10年、電話ならぬmailという余計な機能が進化したせいで、主婦や若者の間に爆発的な普及をみせ、気がつけば女子高生たちにその主導権の座を奪われてしまっていた。さらに10年、インターネット接続を利用したtwitter、LINE、ゲームといった不必要な機能がどんどん追加され、昨今のiPhoneやスマフォの登場により、高性能カメラやメディアプレーヤー、モバイルバンキングやお財布機能、GPSと連動したナビゲーションシステム、そして音声入出力による通訳機能まで搭載するようになった。もはや携帯電話は電話ではない。

かたや、中途半端なオマケ機能で携帯会社の策略に踊らされることを拒んだオヤジ族は、あえて利便性を捨て、単一高性能を求めた。例えば、mailは指10本で叩けるコンピュータを使い、SkypeがあればLINEは要らないし、カメラはデジタル一眼レフが常識、音楽はアナログ音源をJBLクラスのスピーカーで聞かないと耳が満足しない。

したがって、携帯電話は電話機能さえあればそれでいい。我々オヤジ族は、間違っても女子高生と同じツールを使ってはいけないのである。               (Sakai)

因果応報

「因果応報」とは、元来、仏教の教えである。今起きている現象<結果>には必ず過去の理由<原因>が存在する。大根の種を蒔けば必ず大根が実るのであって、偶然にスイカが実ることはない。よって、仏教では善因善果悪因悪果といい、善い種を蒔けば良い実りがあり、悪い種を蒔けば不毛の結果を招くと教えている。さらに善因楽果悪因苦果といい、善い行いをすれば心は満足感で晴れ渡り、悪い行いをすれば心の呵責に苦しめられるといった具合に、たとえ表面上に現れなくとも行いの結果は心に現れるとしている。ここまでは哲学や物理でいう「因果律」と同じ道理である。

「因果応報」の画像検索結果

しかし、超複雑化した現代社会においては「何の因果でこんなことに…」と事象の因果関係を特定できないことが多い。とりわけ、地震や干ばつなどの天災、いわゆる不可抗力をどう説明するのか。諸説あるも仏教では「前世の業」の「因縁」による宿命と説くのが主流のようだ。「業」とは行いのこと、因縁の「因」は直接要因で「縁」は間接要因(条件)と解釈できる。もっとも「前世」が存在すればの話だが。ちなみに、キリスト教圏では「不可抗力」のことを“act of God”(神の行い)と表現する。洋の東西を問わず、科学で証明できないことは神仏が解決してくれることになっている訳だ。

さて、何の因果かわからぬが、この度広大な農地を借りることになった。善因善果とすべく善い種まきをしたいと思っている。とりあえずは枝豆ですか?

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 (とりあえず生中のSakai)