流れを見ずに水を見よ

とかく日本人は流されやすい。一昔前までは「11月からクリスマス商戦?ちょっと早いね」なんて言ってたかと思えば、いつの間にかその時期はハロウィーンの仮装パレードで「個性をアピール!」なんて言ってバカ騒ぎしている。そのくせ普段は、似たような髪型や服装で同じようなヴィトンのナイロン製バッグを振りかざして歩いている女性たち、「私のは新作よ!」なんて言って。新作だろうが何だろうが、末は所詮プラゴミだ。そしてついこの間は、アメリカ大統領選でトランプが勝ちそうになっただけで東証株価が大暴落、翌日、本人が大減税政策をしゃべっただけで反転暴騰するありさまだ。流されやすいというか、良くいえば順応性が高いというか、良くも悪しくも平和というか脳天気というか、とにかく行動に主体性がないのである。

こういった現象を少し掘り下げて考えると、プカプカ「流されやすい」人々を、水面下で「流そう」とする仕掛け人がいることに気付く。時にイベント商戦やブランディングのプロデューサー、時にヘッジファンドのトレーダー、いずれも意図的にトレンドという水流を作り出して、出来るだけ多くの人々を流してやろうと企てる連中のことだ。流されてしまったほうはまんまと彼らの企てにハマったわけである。ただ、仕掛け人は悪いことをしているわけではなく、彼らにとってはそれが「お金を生む仕事」だからやっているだけのことである。

むしろ私が言いたいのは、流されてしまう人たちに対し、「流れを見ずに水を見よ」ということだ。すなわち、流れに惑わされることなく水そのものが澄んでいるか濁っているかを見極めよ、ということである。流される先の水が澄んでいれば、流れに身を任せ、濁っていれば流れから離れるという意味でもある。したがって、もし今、流され始めた人がいたならば、主体性の観点から三通りのタイプがあると考えられる。①水を見て自分の判断で流されている人、②水を見て自分の判断で流れから離れようとする人、③水を見ないで周囲を見て流されている人、である。

これらの内、①と②はともに主体性が強い人だ。物事の本質を見抜く目を持ち、どんな仕事に就いてもそれなりの成果を上げられるだろう。また、福祉業界に身を置けば、間違いだらけの教科書に頼らず、利権に偏った厚労省の指針を真に受けることなく、個々の利用者と向き合うことで本当の福祉を実践するだろう。その一方で、独自のこだわりや偏屈さから、周囲から誤解され、友達もなく、孤独で寂しいマイノリティな境遇となるかもしれない。ただ、マイノリティ同士、障害者とは解り合えるはず・・・。

しかし本当の問題は、主体性に欠けた③の人たちである。「長いものには巻かれろ」と体制に逆らうことなく、「周りがやりだしたから後に続け」とばかりトレンドに便乗する人たち。だから、冒頭に書いたような困った現象が起きているのだ。同時にこれがマジョリティな日本人だ。もし、彼らが福祉業界に身を置けば、教科書や行政ルールに何の疑いも持たず、利用者の悩みを十把一絡げに受け流し、自分にストレスを与えない人たちとだけ和気あいあいと仲良しグループを作るだろう。 楽しいかい?

ちなみに、自分は①~③には当てはまらない④水を見ないで流れに逆らってみる、注意欠陥反動性タイプである。 ドーパミン過剰か?

最後に、時流に一石を投じた先人の言葉をいくつか紹介したい。

“Study nature, not books” 「自然から学べ、本じゃなくて」

ルイ・アガシー     1807-1873.スイス生まれのアメリカの古生物学者、海洋学者、地質学者。生物や地球に関する様々な観測や研究から北半球全体が一つの巨大な氷河であったと発表した。

 

「病気を診ずして病人を診よ」 病気という既成概念(先入観)ではなく、病人そのものを診よ。

高木兼寛                          1849-1920.東京慈恵会医科大学創設者。麦飯が脚気予防に通じるという仮説をたて、その実践が後のビタミン発見につながった。

 

何かを学ぶためには自分で体験する以外にいい方法はない。私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である。

アインシュタイン   1879-1955.ドイツ生まれのユダヤ人で20世紀最大の物理学者。相対性理論の実証によって、当時の絶対理論であったニュートン力学をひっくり返した。

 

これら三つに共通することは何か?説明には及ばないでしょう。       (Sakai)

”It takes a village” 「村一つが要る」  ~前 編~

”It takes a village” 「それには村一つが要る」が直訳だが、「村中みんなで」と訳すのが自然である。

もともとはアフリカの諺で、時の人、ヒラリー・クリントンがかつて自著のタイトルに使って有名になった言葉である。そのあとに ”to raise a child” と続けて、「子供を育てるには村一つが要る。」「子供は村中みんなで育てる。」という意味になる。

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  • シンプルさが時代を超える

”It takes a village to raise a child.” は、一説にネイティブアメリカンの諺とも言われるが、そういえば過去にこんな話を取り上げたことがあった。

『ネイティブアメリカンのナコタ族には、婿を選ぶ基準というのがあるそうだ。それは、男が狩りから帰って来た時、獲物をまず誰に与えようとするか!である。自分の家族で独占する男は?・・・もちろん失格!好きな女性の家に持っていく?・・・これもダメ! “親を亡くしたり、夫を亡くしたりして、部族の中で一番困っている人に先ず獲物を持って行くかどうか” 父親は、娘に言い寄ってくる男たちの、ただその一点を見極めたという。』

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「子供を育てるには・・・」と視点こそ違え、「弱い人を他人の力で支える」というシンプルな考え方において双方同じだといえる。そして、シンプルだからこそ時代や文化を超えて今に受け継がれる普遍的価値を持っているのだろう。「村中みんなで弱い人を支える」この考え方は、「地域で社会的弱者を支援する」社会制度として現代社会に受け継がれることになった。

  • 複雑すぎる日本の福祉制度

そこで近年、日本の行政は欧米の福祉先進諸国に見習い、社会的マイノリティに対する支援制度を作った。児童、高齢者、障害者をその主な対象として、それぞれに一定のルールを作り、それまで行き当たりばったりで行われてきた行政措置を福祉事業として民間に丸投げしたわけだ。ところがその内容は、外から見ても内から見てもシンプルとは正反対の複雑で分かりづらいものになってしまった。

我々に身近な障害福祉サービスを例にとってみると、身体、知的、精神、それぞれの障害度等級と支援区分の足し引き掛け合わせを基に、おそらく100種類は超えてしまうだろうサービス形態の「枠」が作られていて、そこに利用者と事業所および時間数の組み合わせを当てはめることになる。

利用者も事業所も通常複数のサービス枠を持っているので、それらの組み合わせパターンを一覧表にしようとすると最低でも(時間数を加味しないでも)その地域の(利用者人数 x 事業所数 x サービス形態数)= 相当な数のセル、即ち「枠」が必要となるわけだ。

仮にMicrosoftExcelならば、あっけなくフリーズしてしまうだろう。よくもまあ、厚労省の役人はそこまで複雑なことを考えたもんだと感心するわけだが、私に言わせれば、複雑ゆえに頭がオーバーヒートした単なるイモ頭だ。しかし、これぞ彼らの既得権益なのだから仕方がない。我々事業者だけでなく地方の役人も、イモ頭が作った複雑すぎるマトリックスの窮屈なセルの中で福祉サービスを実施しているといえるのだ。これでは時代を超えて受け継がれるどころか、近い将来に制度破綻を招くだろう。

”It takes a village” 「村中みんなで」すなわち「地域で支える」ために必要なルールとは何か。村のルールに国が口出しする必要があるのか。もし、私が決めていいなら、迷うことなくナコタ族の酋長を探すだろう。          ・・・後篇に続く

(Sakai)

オンリーワンからナンバーワンへ

  • ホスピタリティな運動会

スポーツの秋、「ナイスハートふれあいのスポーツ広場」と題して、障害のあるなしを超えたバリアフリー運動会が各地で開催される。これは、自動車総連メンバーが自ら集め始めたカンパを基に、「スポーツを通じてハンディキャップをもった方々と自動車産業に従事する組合員とがふれあいを深め、『自立の心と思いやりの心』を育むことを目的として」1992年にスタートした行事である。

参加者全員にお弁当とTシャツが配給されると聞き、我が施設は4年前に初参加した。回を重ねるたびに感心するのは、配給品よりもおもてなしの心だ。会場設営から受付案内と救急班設置、競技説明、進行、アトラクション、会場撤去とゴミの片付けまで、50名を超える若いスタッフたちには、参加者に一切負担をかけない必至の配慮が見える。そして、それなりに障害者のことを勉強して臨んでいることが何より頼もしい。しかも休日返上のボランティアだ。

最後にスタッフ全員が、参加者一人ひとりを笑顔と拍手で見送る退場の花道をつくる。そこを歩いていく間、心が洗われていく思いがして涙が出そうになるのである。ホスピタリティとは何か。それを本分としているはずの我々が、モノづくりを本分とする若い彼らから、恥ずかしながら教わっている気がする。

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  • もともとのオンリーワンから特別なオンリーワンへ

運動会終盤、♪ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワ~ン♪ この曲が流れると参加者スタッフ全員が手と手を携えて大きな輪を作り、フォークダンスのように曲に合わせて少しづつ回りながら合唱する。笑っている人も泣き出しそうな人も照れくさそうな人もすまし顔の人も、一人ひとりが活き活きと「オンリーワン」の声で大合唱を・・・と言いたいが、実際は烏合の衆のどよめきか・・・。まっ、ご愛敬。

ところで、そのテーマ曲を口ずさむにつけ必ず思うことがある。「ナンバーワンにならなくてもいい」と唄うその裏で「ナンバーワンになろうよ」と唄っている気がしてならないのだ。表現をかえると、現状に甘んじる「もともとのオンリーワン」から、頑張ってナンバーワンを目指す「特別なオンリーワン」になろうよ、ということだ。わざわざそんな裏を読みたくなるのは、曲中のフレーズ「頑張って咲いた花はどれも綺麗だから」である。そして、この曲を唄っていたSMAPが当時の人気アイドルグループで名実ともにナンバーワンだったからである。

ただ、少し穿った見方をすれば「ナンバーワンの俺たちが言うんだから」という頂上から目線の「おせっかい」なのかもしれない。そんなSMAPの解散騒動が再燃しているようだが、彼らは逆にオンリーワンに戻りたいのだろうか?それはさて置いといて・・・。

  • ナンバーワンの響き

民主党政権時代、世界一を競い合うスーパーコンピュータ「京」の事業仕分けの席で蓮舫議員が「世界2位じゃダメなんですか!」と迫った。反対に、リオ五輪である柔道選手がメダルの色について「金と銀では天国と地獄ほどの違いがある」と語った。誰が見ても後者が正解である。「京」開発者にしてもアスリートにしてもナンバーワンの響きでしか心は振動しないのである。銀メダルを取って負けの涙を見せた吉田沙保里選手がそのことを証明している。逆にもし、蓮舫議員が以前の考えのままならば民進党のトップにはふさわしくない。

  • 自分だけのナンバーワン

では、ナンバーワンとは、他と競い合って勝ち取るものなのか?私は必ずしもそうは思わない。対照的な事例を二つ見ていただきたい。

①人類で初めて6mを跳び、自己の世界記録を35回も塗りかえた棒高跳びのブブカ選手が金メダルを取ったあとは、自分との戦いだった。

脊髄性筋萎縮症のため顔と左手親指を除いた部位が動かない「寝たきり芸人・あそどっぐ」さんは、「ブスと障害者は三日で慣れる」と障害を隠すことなく、むしろ強みとして、顔芸や自虐コントを発信している。

二つに共通していることは、自分が決めた「自分だけのナンバーワン」に立ち向かっていることだ。そして、それを目指す人が、とりもなおさず「特別なオンリーワン」なのである。

お笑い芸人界のパラリンピック「SHOW-1 グランプリ」に挑戦する「あそどっぐ」さんは、「病気を理解して欲しいとか、同情して欲しい訳ではなく、お笑い芸人として見て笑って欲しいだけです」と話していた。 (Sakai)

無意識の記憶連鎖

先日、私の父親が他界した。通夜のお経を聞きながら、何気に中学生の頃読んだ本の一節を思い出していた。三木清「人生論ノート」、確か冒頭「死について」の書き出し、「最近、死というものを恐ろしいと思わなくなってきた。おそらく歳をとったためだろう。」という意味の一節である。そういえば、還暦を迎えたころの父は、その一節と同じことをしきりに語っていた。また、意識がなくなる二週間ほど前には、「そろそろあの世に行こうかな」と自分の死期を自らが定めたような言葉を発していた。顔は安堵の表情そのものだった。

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時々節目に鐘を打ちながら、長々続くお経のハーモニーが心地よく感じるようになったころ、私の意識は父から離れ、再び過去に読んだ本を連想していく回路に入った。「人生論」といえば武者小路実篤、といえば「新しき村」(本ではないが…)、といえば共同体、といえば吉本隆明「共同幻想論」、といえば岸田秀「ものぐさ精神分析」、といえばフロイト「精神分析学入門」、といえば「ち~~ん・・・」一旦、記憶の連鎖がとだえ、自分に問いかけた。何故、勝手に過去のことばかり頭に浮かんでくるのだろう。まあいいか、私はブッディストではないので、お経に興味がないだけなのかも・・・。

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そして、意識は現実へと向かった。精神分析といえば統合失調症の利用者Nくんは、2分間しか記憶を保持できないが、昔のことはビデオを再生するようにしっかり覚えている。ただし、インパクトある経験だけのようだが・・・。お経を忘れて過去を妄想していた今の自分も彼と同じ状態なのだろうか。「南無阿弥陀仏~、ち~~ん。」 実に長いお経だ。そして、三度、記憶の妄想回路に入った。お経→諸行無常→小林秀雄「無常ということ」→森三樹三郎「無の思想」→老荘思想→中野孝次「清貧の思想」→ムヒカ元大統領→水色の古いフォルクスワーゲン→父が50年前に乗っていた水色のスバル・・・。おっと、そういえば今は父の通夜の最中だった。でも何かが違う、一年半前の母親の時、五年前の妹の時と。身内の葬式ながら、自分の意識に何か変化が起きている。

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片道5時間の帰路で、ふと思い出すのは、やはり、自分が過去に読んだ本のことばかり。家に着くやいなや、三木清の「人生論ノート」を読み返してみた。すると、こう書かれていた。

「近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた。年齡のせゐであらう。以前はあんなに死の恐怖について考へ、また書いた私ではあるが。思ひがけなく來る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである。この數年の間に私は一度ならず近親の死に會つた。そして私はどんなに苦しんでゐる病人にも死の瞬間には平和が來ることを目撃した。…」

まさに、私が直面したこととシンクロしていたのだ。私は、無意識の記憶連鎖の中に、自分の将来の姿を予想した、忘れかけていたこの一節を探していただけなのかもしれない。      (Sakai)

セルフオペレーティングシステム

ちまたでは、「ポケモンGO」に熱中するあまり衝突事故や不法侵入が頻発しているようだ。ただでさえ街角の「歩きスマホ」が問題視されている昨今において、全く人騒がせな「バカモンGO」である。このような社会現象は、コンピュータIT技術をベースに急速な進化を続けるAR(拡張現実)やVR(仮想現実)技術に、人間が振回されているために起きていると考えられる。つまり、スマートフォンやゲーム機をコントロールできる人間が、逆に自分をコントロールできなくなってしまったのである。リアルとバーチャルをシンクロナイズする技術は、今後ますます人間の社会生活に浸透していくだろう。懸念すべきは、人間の判断力や想像力がコンピュータ技術と反比例して退化していくことだ。そして、知らない間に全ての人間は仮想現実の世界に生かされている?? コンピュータが人類を支配してしまう「MATRIX」は映画だけの世界であって欲しい。

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▽無意識のバーチャルリアリティ

さて、障害福祉施設には、自分の意思とは無関係に日々、バーチャルリアリティを体験している利用者がいる。我々には見えない世界の人に話しかけたり、一緒に笑ったり、喧嘩して怒ったり、説教されて泣いたり、見たこともない絵をかいたり…。統合失調症に見られる日常的な幻覚・幻聴・妄想もまた、リアルとバーチャルがシンクロする世界のようだ。ところが、時々リアルとバーチャルの間に著しい矛盾が起こると、彼らは、無意味な奇声を発したり、床や道路でのた打ち回ったりする。コンピュータに例えるとシステムクラッシュだ。あるいは、まれに精神活動がストップしたかのように固まることもある。例えるとフリーズだ。彼らのこのような行動は、現実空間と仮想空間を同一視していることの証である。即ち、彼らにとっては、全てが目の前の現実として起きていることなのである。

▽コンピュータと人間

クラッシュやフリーズが起きたとき、コンピュータならば先ずリセットを試すのがリカバリーの基本だ。だが、人間にはリセットボタンがない。「そんな当たり前のことを…」と思われるだろうが、そこが人間とコンピュータの本質的な違いなのだ。つまり、人間にボタンがないのは、自分自身でリカバリーが行えるからである。かつては「コンピュータ、ソフトなければただの箱」と言われたように、コンピュータはOS(オペレーティグシステム)をインストールするところから始まり、逐一コマンドを与えないと動いてくれない。当然、リセットボタンを押すのも人の手だ。

対して人間は、未熟ではあるが生まれつきのOS、即ち「意思」を持ち、その処理能力は低く、記憶容量も小さく、正確さに欠けるかも知れないが、自分で学習し、見識を広め、目標を設定し、必要なスキルを習得することで、自身をバージョンアップする能力が備わっている。だから、時々失敗や挫折をしても、いつかは自身をリカバリーできるのである。さらに、過去の経験から未来を予測する想像力や新しいデザインを描いたり新しい音楽を作曲する創造力など、コンピュータとは比較にならない高いポテンシャルを持っているといえる。

そんな人間の「意思」は、「セルフオペレーティングシステム」と名付けて差し支えないだろう。ただし、そのポテンシャルを活かも殺すもその人自身であることを忘れてはいけない。なぜなら、人間の意思は本来自由であり、そこにセルフコントロールが働いて初めてセルフOSとして機能するからである。例えば意思の「意」は理性という意識の領域、「思」は感覚・感情という無意識の領域、そう考えると解りやすい。どちらが正しいとか良いとかの問題ではなく、善くも悪しくも人間の意思には、常に意識と無意識が隣り合わせでいるのだ。

▽現実は映画より奇なり

統合失調症の激しい強迫観念や幻覚・妄想と闘いながら、ノーベル賞受賞の偉業を成し遂げたアメリカ人がいた。天才数学者ジョン・ナッシュの半生をモデルにした映画「Beautiful Mind」では、妻アリシアが、セルフコントロールを失った夫ジョンの闘病生活を支えるという献身的な姿が描かれている。とはいえ、彼女が夫にしてあげたことは、病気を治すことよりも研究に復帰させるための支援だった。なぜなら、かつてジョンの教え子であったアリシアこそが、彼の才能と病気の両方を知る最大の理解者だったからである。彼女の助けを得たジョンは次第にセルフコントロールを取り戻し、彼が確立したゲーム理論の経済学への応用から1994年ノーベル経済学賞を受賞(映画はここまで)、さらに2015年5月には数学者だけに与えられる最高賞アーベル賞を受賞した。ところが、オスロで行われたその授賞式からの帰路で交通事故に遭い、二人は波乱の生涯の幕を閉じた。現実は映画より奇なり。想い出すにつけ涙あふれます。

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私は支援者の端くれとして、この実話から大切なことを学んだ。我々の仕事は、利用者の過去を振り返り現在をリカバリーすることではなく、現在のポテンシャルを未来につなげていくこと。即ち、「ベクトルは前方にのみある」ということである。しかし一つ心配なのは、アラカン(around 60)に突入した私にその力が残っているかどうかである。セルフOSのいたる所にバグが生じ始めている。さしあたり「ぼけモンGO」と言われないように気を付けよう。  (Sakai)

お詫び:文中ところどころに人間と機械を比較した記述があります。精神障害で苦しんでおられる方々にははなはだ失礼なことと思いつつも、あくまで一般の方に解りやすくという趣旨からですので、どうかご容赦いただくようお願いいたします。

「現象には必ず理由がある、 かもしれないが・・・」    ~後編~

事例比較

 ここでもし、ギャンブル依存症の人からお金をねだられたとき、金銭管理を任された支援者がとるべき言動はどれか、過去のケーススタディから私見を書かせていただく。

1.「精神科に行って診てもらいなさい」と治療を勧める。一番簡単な方法だが、依存症の当事者は自分が病気であることに気が付いていない、もしくは認めようとしない傾向にあり、素直に勧告に従うことは少ない。仮に勧告に応じたとしても日本の精神科医療のレベルでは薬物療法が関の山。一時的には衝動性が治まるかもしれないが、所詮、対症療法でしかなく根本解決には至らない。それにもまして、リスクのほうがよほど恐ろしい。副作用として、自殺を招きやすい「うつ病」を誘発するばかりでなく、少なからずは薬物依存症に陥り脳がいかれてしまうのだ。一般的に福祉施設がやりがちな医療への誘導は、ほとんどの場合こういった負の連鎖という最悪の結果をもたらす。したがって、よほど信頼関係の強いドクターがいない限り、これはやってはいけない。

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2.「どうせ当たらないんだから宝くじなんかに無駄金を使うな」と財布のひもを締める。まず「どうせ当たらない」という言葉に科学的根拠がない、つまり本人は一度当てているのだから。次に「無駄金を使うな」、宝くじを買うためのお金は本人にとって無駄ではない。よって、なんの説得力も持たない。むしろ欲求を否定された本人にストレスがたまり、かえって「宝くじを買いたい」という衝動をあおるだけだ。したがって、この否定的指導は逆効果である。

3.「いいよ、当たったら賞金の半分返し、当たっても外れても貸した元金は倍返しね」と言ってお金を貸す。借りたお金は返さなければいけない。そんなことを続けるうちに借金はどんどん膨らみ、返せなくなってくる。すると、生活に支障をきたすようになる。そこで初めて妄想から覚めて自身の現実を見るのである。簡単にいうと、誘いにのったふりをしてどん底に突き落とすのだ。で、そこから先は這い上がるしかないわけで、上手に救いの手を差しのべてあげるのだ。 「これでいいのだ!!」

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しかし、本当にそれでよいのだろうか?

そもそも何が問題なのか

話は後先になったが、そもそもギャンブル自体が悪いわけではない。喫煙、飲酒、性風俗・・・それらも同様、欲と快楽にかまけることは人間本来の権利である。ただ、そこで依存症に陥り、社会生活に支障が出てしまうことがよろしくないのである。いや、さらに翻って考えれば、「依存症のどこが悪い?社会生活に支障があって何が悪い? 障害者も健常者も皆それなりの問題を抱えて生きている。全ては当事者自身の問題であり、本人が良しとすれば全てそれで良し!」 とどのつまり、「べてる式非援助論」のように問題そのものを肯定してしまうのは短絡的だろうか?

ドラマ「ガリレオ」で、「現象には必ず理由がある」と強い信念を固持する湯川教授が、「僕がこの事件の真相を暴いたところで誰も幸せにならない」と口走ってしまうシーンがあった。

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究極的に人間の幸せとは理由を特定できない曖昧なものである。

(Sakai)

「現象には必ず理由がある、 かもしれないが・・・」    ~前編~

向精神薬を常用するとメタボリック症候群に陥る確率が高い。この現象には、抗精神病薬の一部に食欲亢進および糖脂質代謝異常を引き起こす作用があるという理由が存在する。

メタボリック症候群の必然性

一般的に摂取カロリーが消費カロリーを上回ると体重は増加する。仮に摂取と消費の釣合いがとれた状態から、1日コーラ500ml(240kcal)を1ヶ月間飲み続けると1kg(7200kcal)体重が増える。これは、なるべくしてなった「必然」である。1㎏太ったという現象には、1日240kcalx30日間の摂取オーバーがあったという明確な理由が存在する。

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逆に体重を元に戻そうとするならば、例えばコーラをお茶に替えて1日1時間の散歩を30日間続ければよい。これは、体重100㎏超のメタボさんに向けて日々発しているダイエットの基本セオリーである。もしも本人がその理屈に気付いて、そのまま行動に移すことができたなら、1ヶ月間で7200kcalの消費オーバーとなり体重は1㎏減少する。このような必然性のことを仏教では因果応報、また自然科学では因果律と呼んでいる。これら因果の法則は、人の行いを制する規範として我々の日常生活で用いられ、医療・福祉の現場では認知行動療法等の中で少なからず用いられている。

ギャンブル依存症の偶然性

ところが、世の中で起きている全ての現象に理由が存在する、即ち因果関係が存在するかというと決してそうではない。簡単な例でいえば、宝くじ。それをいつどこで買っても当たる確率は同じである。例えば、運勢がいい日に買う、よく当たりが出る店で買う、買った宝くじを神棚に置く・・・など、いかなる手段を講じようとも、確率が変わることは絶対にない。ゆえに、もしも大当たりしたとすれば、それは全くの「偶然」であり、偶然に起きた現象に理由は存在しない。無論、運勢がいい日に買った・・・などとの因果関係はゼロである。だが、その偶然を一度でも経験した人は自分の将来に注意が必要だ。例えば「今日の運勢は最高だから宝くじを買うときっと当たります」とか「7億円当たったら1億円差し上げますから」とか調子のいいことを言ってお金をねだる人の十中八九はギャンブル依存症に陥っている。

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まず偶然がきっかけで一度快楽を味わうと、つらい現実に目を背けて、また次の快楽を求めたくなる。たまたまの偶然が次も起こるという錯覚にとらわれるのである。そして、科学的根拠のない占いを信じたり、当たった時の夢を見たり・・・で、心は妄想の世界に入ってしまうのだ。しかも、「宝くじは買わなきゃ絶対当たらない」という自分に都合のよい必然性だけを主張するようになる。もはや本人の力だけでは元に戻れない状態だ。

実は、かつて自分自身が当事者だったことがある。相場でたまたま儲かった。次買えばさらに儲かる・・・。いつのまにか偶然が必然にすり替わっていく。儲かったからではない、買い続けたから依存症に陥ったことを、その時の自分は気が付いていなかった。     後編に続く・・・  (Sakai)

アリのままにマイノリティ

 働かないアリの存在意義

「働かないアリがいるからこそ、アリの社会は長く存続できる」という興味深い研究成果が、北海道大学長谷川准教授らによって発表された。アリのコロニー(集団)には、ほとんど働かない個体が常に2割程存在する。過去の研究では、働かないアリを排除して働くアリだけのグループを作っても、働かないアリが必ず一定割合現れることが確認されていた。しかし効率がセオリーである自然界に、なぜこのような非効率が存在するのかが大きな謎だった。

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長谷川氏によると、

「約2割のアリは働きたくないから働かないわけではなく、周りに働いているアリがいなければ普通に働くのです。つまり外部からの刺激に対して感度のばらつきがあるということです。このような仕事に対する腰の軽さの個体差を『反応閾値(いきち)』と呼んでいます。必要な仕事が現れると、反応閾値の最も低い一部のアリがまずは取り掛かり、別の仕事が現れたらその次に閾値の低いアリが・・・と、個体間の反応閾値の差異によって、必要に応じた労働力がうまく分配されているのです。」 でも反応閾値が皆同じで、全個体で一斉に仕事をしたほうが処理量は増えるのでは?という問いに対しては、「皆が一斉に働くシステムだと、皆が同時に疲れてしまい、誰も働けなくなる時間が生じてしまいます。コロニーには、卵の世話などのように、短い時間でも中断するとコロニーに致命的なダメージを与える仕事が存在しているのですが、それまで働いていなかったアリが働き始めることで、労働の停滞を防ぐ。つまり、働かないアリがいるシステムの方が、コロニーの長期的な存続が可能になるということです。」と説明している。

 人間社会のマイノリティゾーン

さて、人間社会にもマイノリティが存在する。ただし、アリ社会のように単純で寛容とはいいがたい。単一民族国家日本では、在日外国人、少数民族、同性愛者、ホームレス、低学歴者、児童そして障害者などのマイノリティが、ともすれば偏見やいじめの対象となりがちだ。とりわけ、福祉施設での差別や虐待が社会問題化している昨今、おりしも今年4月より障害者差別解消法と障害者虐待防止法が同時に施行されることになった。しかし、はたしてこれで問題がなくなっていくだろうか。目に見える身体的虐待ならともかく、精神的虐待、即ち差別偏見については、その解消に50年、100年単位の時間が必要となるだろう。なぜならば、徳川時代300年間に培われた縁故的排他主義と明治以降から続く多数派絶対主義、即ち似非民主主義が現代日本のマジョリティに深く根付いているからだ。マジョリティのほとんどはマイノリティゾーンを理解していない、いや、理解しようとしないのである。そんなマジョリティが作ったルールの効力がいかほどのものか、想像するに難くない。

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働かないアリの存在意義を実験で証明した長谷川准教授は、「我々の社会においてもムダを省くばかりではなく、ムダを楽しめる「余力」のようなものが必要なのかもしれません。」 と締めくくっている。

人はアリのままに生きられないのか? さしあたり、人間はアリ以下の存在なのである。          (Sakai)

Associa 日本一オシャレな施設

沖縄県北谷町、米空軍嘉手納基地にほど近い商業区域にその福祉施設がある。カーナビで訪問した際、少しアートっぽい外観のカフェレストランにたどり着くも、通常目にする「就労支援事業所○○」とかの看板がないため、すぐ隣の百円ショップから場所確認の電話を入れた。「えっ、このカフェがそうなんだ」と思ってしまうほど福祉施設らしくないのだ。実は、これが就労支援施設アソシアの基本コンセプトだったのである。

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  • オシャレだから通いたくなる。

中に入るとさらに驚いた。誰が職員で誰が利用者なのか全く見分けがつかないのだ。厨房、ホール、事務所などそれぞれの持場で、それぞれふさわしいワークウェアを身にまとっている。外だけでなく中も福祉施設らしくない、さながら一般企業だ。しかもオシャレでカッコいい。そして、案内してくれた施設長宮里氏にいたっては「若きスーパーバイザ」と呼びたくなるほど誰よりのイケメン。オシャレな施設で…オシャレなカッコして…明るい気持ちで働きたい。誰しもが望む当たり前のモチベーション。あらためて気付かされた思いがした。ちなみに、プロ級にオシャレなパンフレットは株式会社アソシア社長自らがデザインしたものだった。単色を基調としたシンプルで直感的な色使いは、いささかWindowsやUNIQLOのパクリ感はあるものの、若者にウケるトレンドだ。社長はかつてデザイナーだったらしいが今尚現役か?なるほど、うなずける。

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  • スペシャリストから実践で学ぶ。

スタッフの平均年齢は30代前半。福祉畑しか知らない指導員は一人もいないという。接客コースにはホールマネージャ、調理コースにはシェフ、製菓コースにはパティシア、庶務コースにはオフィススペシャリスト、清掃コースにはクリーニングインストラクター、製作コースにはクラフトマンといった具合に、六つの訓練コースすべてにその道のスペシャリストを配置している。徹底した実践型訓練には本番さながらの緊張感が漂う。「厳しいけど充実している」訓練生の目がそう物語っていた。80%を超える高い就職率はここから生まれていたんだ…。元システムエンジニアで作業療法士の経歴を併せ持つ宮里氏が人員配置およびコンテンツ全体設計に関わった。なるほど、ここにもスペシャリストの設計思想が色濃く出ていた。

  • 継続の原動力はコミュニケーション能力。

施設内全コースを見学させてもらったが、スタッフだけでなく、すれ違った訓練生すべてが笑顔で挨拶してくれた。宮里氏は「一般に精神に障害を持つ人はコミュニケーションが苦手です。とかく対人関係でストレスを溜めてしまうことが多い訓練生たちに心理学を学ばせています。そうして、コミュニケーション力が高まれば、職場でのストレスも減り、結果、長く仕事を続けることができます。定着支援にもつながりますね」と、「社会的適応能力の回復」という作業療法士の一側面をいみじくも語っていた。一級の職業訓練校を凌ぐ一級の福祉施設ここにあり、てなところだろうか。

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  • カフェレストランAssociaは本番。

私たち二名は宮里氏の施設案内から離れ、カフェで昼食を摂った。デザートとコーヒー付で1,000円のバイキングランチ目当てに満席近い 混み合いの中、ちゃっかりと予約席に座るやいなや、訓練生らしき女性店員が「お待ちしておりました」とばかり現われ出てきた。

予約客とはいえグルメ評論家でもない私たちに、素材の説明から取り皿の使い方まで実に丁寧な説明をしてくれる。ファミレスなどにありがちな杓子定規な応対とは対照的だ。そんな、臨機応変のスキルを既に自分のものにしている訓練生がいれば、片方、カウンターの向こう側でマントゥマンの指導を受けながらうなだれている訓練生がいる。店がオープンすればすべてが本番、これが実践型訓練の日常なんだと理解した。余談だが、私は過去沖縄で、ホテル食以外においしい食事をいただいた記憶はなかったが、ここでの料理は格別においしかった。

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また、一方の連れは感極まったのか、涙を流しながら食べていた。

オシャレ、スペシャリスト、コミュニケーション、これら三つのキーワードが利用者のモチベーションを創出し、Associaのホスピタリティに結集している。あらためて考えれば当たり前、言うは易し、されど行うは難し、観光立国沖縄ならではの就労支援である。

(Sakai)

悲しい就労支援大国、愛知県

モノづくり大国、日本。愛知県には、トヨタを筆頭に屈指の優良企業がひしめいている。かたや、就労支援事業所数においても当県は全国トップクラスに入る就労支援大国だ。ところが、障害者の雇用率を見ると、なんと当県は全国ワーストクラスなのだ。ちなみに厚労省が、全労働者数に対する障害者雇用数の割合を2%(法定雇用率という)以上と義務付けている企業(従業員数50名以上)の実雇用率を2014(2013)年にまとめた調査結果は次の通りである。

  • 実雇用率トップ10:山口46(2.33)大分2.28(2.15)佐賀2.27(2.17)福井2.26(2.27)奈良2.22(2.22)岡山2.16(1.93)長崎2.15(2.1)宮崎2.15(2.04)沖縄2.15(2.12)熊本2.14(1.97)
  • 実雇用率ワースト10:愛媛74(1.73)愛知1.74(1.68)宮城1.74(1.71)新潟1.75(1.65)神奈川1.75(1.68)茨城1.75(1.66)栃木1.76(1.68)福島1.76(1.69)東京1.77(1.72)千葉1.77(1.71)

成績の良い県は西に、悪い県は東におおむね集中するという数字分析はさておき、問題視したいのは、就労支援大国愛知県の障害者実雇用率がこれほど低いのは何故かということだ。私なりの解釈による結論を先に言えば、当県の行政および設置法人の体質が古すぎて時代にそぐわないということだ。その理由を述べる前に、対象者の想定から就労支援の3形態をご説明しておきたい。

  • 就労移行支援:一般就労(民間への就職)が可能と見込まれる者。利用期間は2年。

訓練中心で賃金支給の制約はない。

  • 就労継続支援A型:一般就労が困難であり、支援事業所との雇用契約による就労が可能である者。

利用期間の制限なし。賃金は最低賃金法に基づく。平均賃金月額68,691円    (2012年)。

  • 就労継続支援B型:一般就労が困難であり、支援事業所との雇用契約による就労が困難である者。

利用期間の制限なし。賃金の下限は月3000円。平均賃金月額14,190円    ( 2012年)。

①、②、③または生活介護などの支援を多機能型として併設している事業所も数多い。設置法人の約3/4は社会福祉法人である。

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さて、当地域の法定雇用率がトホホ的状況である理由は何か。

一つには数字のからくりがある。当県はA型事業所数は全国1位だが、定員50以上の事業所が数少ないことから、そこで働く障害者が雇用率にカウントされないことだ。そもそも、法定雇用率を上げたいばっかりに制度化した厚労省施策が裏目に出たということだ。とりわけ精神障害者にとってはハードルの高い一般就労よりもA型事業所を優先的に紹介してきた行政の浅はかさ、いわば制度矛盾である。

そして、もう一つが本質的問題だ。当地域においては、一般就労ではなく福祉就労に囲い込む古い体質が抜けきっていないことだ。具体的に言うと、就労移行支援事業所でありながら、一般就労実績をつくらないまま、期間が過ぎると継続支援へと送り込んでしまうのである。また、昨今急速に利用者登録数を伸ばし、一般就労を希望する精神障害者には目を背け、身体または知的障害者にしか門戸を開かない事業所や個々の特性を見ずに利用者を十把一絡げに扱う従来型授産施設がいまだに多いことである。例えば、福祉課と連動した社会福祉法人が運営する計画相談事業所や障害者就業・生活支援センターなどがそんな旧態依然とした風潮を固持している。たとえ、社会福祉士や精神保健福祉士が何人いようと、利用者が希望する一般就労を実現できなければ何の意味もない。

もっとも、福祉系大学を経て、現場経験がないまま福祉士の資格を取得し、教科書に忠実なことが良い支援だと思っている人たちに、まともな就労支援ができるとは思わない。ましてや、成果が上がらなくても責任を問われることのない手前都合のルールに守られて、受け身一辺倒、前例を踏襲することが仕事だと思っている役人たちに一般企業の何がわかる?

そんな思いの中、先日沖縄県にある就労移行支援事業所を訪れた。障害福祉サービスから一般企業への就職率は全国平均で約4%、就労移行支援事業所からは約20%という厳しい現状で、実に80%を超える驚異的な就職率を達成している事業所だった。そこで目の当たりにした目から鱗の現実を次回にリポートさせていただきたい。

                         (Sakai)