先日、私の父親が他界した。通夜のお経を聞きながら、何気に中学生の頃読んだ本の一節を思い出していた。三木清「人生論ノート」、確か冒頭「死について」の書き出し、「最近、死というものを恐ろしいと思わなくなってきた。おそらく歳をとったためだろう。」という意味の一節である。そういえば、還暦を迎えたころの父は、その一節と同じことをしきりに語っていた。また、意識がなくなる二週間ほど前には、「そろそろあの世に行こうかな」と自分の死期を自らが定めたような言葉を発していた。顔は安堵の表情そのものだった。
時々節目に鐘を打ちながら、長々続くお経のハーモニーが心地よく感じるようになったころ、私の意識は父から離れ、再び過去に読んだ本を連想していく回路に入った。「人生論」といえば武者小路実篤、といえば「新しき村」(本ではないが…)、といえば共同体、といえば吉本隆明「共同幻想論」、といえば岸田秀「ものぐさ精神分析」、といえばフロイト「精神分析学入門」、といえば「ち~~ん・・・」一旦、記憶の連鎖がとだえ、自分に問いかけた。何故、勝手に過去のことばかり頭に浮かんでくるのだろう。まあいいか、私はブッディストではないので、お経に興味がないだけなのかも・・・。
そして、意識は現実へと向かった。精神分析といえば統合失調症の利用者Nくんは、2分間しか記憶を保持できないが、昔のことはビデオを再生するようにしっかり覚えている。ただし、インパクトある経験だけのようだが・・・。お経を忘れて過去を妄想していた今の自分も彼と同じ状態なのだろうか。「南無阿弥陀仏~、ち~~ん。」 実に長いお経だ。そして、三度、記憶の妄想回路に入った。お経→諸行無常→小林秀雄「無常ということ」→森三樹三郎「無の思想」→老荘思想→中野孝次「清貧の思想」→ムヒカ元大統領→水色の古いフォルクスワーゲン→父が50年前に乗っていた水色のスバル・・・。おっと、そういえば今は父の通夜の最中だった。でも何かが違う、一年半前の母親の時、五年前の妹の時と。身内の葬式ながら、自分の意識に何か変化が起きている。
片道5時間の帰路で、ふと思い出すのは、やはり、自分が過去に読んだ本のことばかり。家に着くやいなや、三木清の「人生論ノート」を読み返してみた。すると、こう書かれていた。
「近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた。年齡のせゐであらう。以前はあんなに死の恐怖について考へ、また書いた私ではあるが。思ひがけなく來る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである。この數年の間に私は一度ならず近親の死に會つた。そして私はどんなに苦しんでゐる病人にも死の瞬間には平和が來ることを目撃した。…」
まさに、私が直面したこととシンクロしていたのだ。私は、無意識の記憶連鎖の中に、自分の将来の姿を予想した、忘れかけていたこの一節を探していただけなのかもしれない。 (Sakai)