Let it go! 飛ぼうと思う者だけが飛べる

一年の新たなモチベーションを形成するための心理トレーニングを行いました。モチベーションが不足しがちな方は、ご自分なりにアレンジしてチャレンジしてみませんか!?

  • ステップ1—絶望感に浸る

『 色即是空、形あるものはいつか必ず消えてなくなる。こつこつと貯めたお金も、やっとの思いで築いたマイホームも、不滅だと信じる母なる地球さえも。

諸行無常、この世に永久不変のものなどない。

上昇した株価は必ず下落し、昨日の大富豪が今日は大貧民に、いじめ-虐待-自殺と人の行いは乱れはて、地震-台風-大洪水と神の行いまでもが荒れ狂う。

仏はいったい何をしている、ほっとけ!! 』

このように、あえて思う存分、自分をネガティブ思考回路に追込みます。

  • ステップ2—開き直る

「それがどうした?人生そんなもんでしょ」 と自分なりの居直り文句を発します。ちなみにこの文句は自らの座右の銘です。そして、ここからが大切です。

一回、二回・・・五回ほど徐々にボリュームアップしながら繰り返すうちに、絶望のどん底へ希望の光が差し始めます。

  • ステップ3—自己暗示にかける

続けざまに「飛べればいいのにな」「飛べるかもしれない」「たぶん飛べる」「きっと飛べる」「絶対飛べる」「飛んでやるぅ~!!」と自分に言い聞かせていくのです。他人のことがどうでもよくなるまで続けてください。そして「自分だけが飛べる」そう思えたとき、約80%の自信が漲っているはずです。

**20%の不安はそのままに、腹八分目に留めておくことがポイントです。さらに注意したいのは「どこに向って?」と聞き返さないことです。

Enywhere OK! 飛べる自分をイメージすることが大切なのです。ただし、本当に屋根や屋上から飛んではいけません。漲る自信だけでは重力に勝てませんから。** 不安なき慢心は自分を破滅に導きます。

どうでしたか?このトレーニングは、僭越ながら私が考案した心理療法です。反作用の原理を応用しています。ただし、人生に不満のない人には効き目がないようです。

改めまして、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

「跳ぼうと思う者だけが跳べる」。人類で初めて6mを跳び、自己の世界記録を35回も塗りかえたあの鳥人ブブカがそう言ったかどうかは定かではありません。しかし、彼が成した偉業の背景には人並み外れたモチベーションがあったことは事実です。

「世界一高く跳び、世界一高い車に乗って、世界一いいアパートに住んでやろう」という発言がその表れです。かなり自己中心的発言ととれますが、それでいいのです。自身の記録を自身が超えてきたプロセスに、ライバルという他人がいなかったのですから、自分のことだけを考えることで自分を高めてきたのでしょう。

その意味で、昨年の自分には大きな反省があります。それは、周囲の目を意識するあまり、モチベーションだけが空回りして、A型就労支援という新事業立ち上げに失敗してしまったことです。

その反省をしっかりと踏まえ、今年はもっと自然体で取り組んでいかねばと思っています。

とはいえ、じっとしている「Let it be」ではなく、自由に動く「Let it go」を胸に刻みながら「飛んでみよう」と思います。

私のことはさておき、ムーンワーカーズ、ムーンヘルパーズそしてコスモスオンリーワンを本年も宜しくお願いいたします。

2016年1月1日

㈱ムーンワーカー 代表取締役 坂井 与志久

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Let it be! ありのままがいい。

▽ 昨今、多くの自治体が「障害者」から「障がい者」へと表記を変更し、話の上でも「障がいのある人」と呼称するようになってきた。これに対して、私は以前より異論を唱えてきた。なぜならば、①先ず、「がい」と表記することが、返って「害」のマイナスイメージをあおってしまうから。②次に、「害」の苦しくもどかしい現実を理解していないから。③そして、何よりも障害当事者にとってはどちらでもいい問題だからである。物事の本質が捉えられないことを「木を見て森を見ず」と喩えるが、「木すら見てないで森を語る」人たち、即ち障害者を見ずに世間の目だけを気にしている人たちこそ、そもそもの問題なのだ。うがった見方をすれば、障害者の実情から目を背けていながら、あたかも福祉に配慮しているように見せかけた役人の逃げ口実に過ぎないのである。そういう自分もまた、当事者にしてみれば塵埃のごとき問題をナンダカンダと・・・。

▽ そんな中、「害」をありのままに受け入れながら、「害」ととことん向き合って生きている人たちがいる。精神障害をかかえた人びとが共同生活を送る北海道浦河町のグループホーム「べてるの家」である。その特徴は、病気を治療し、社会復帰をめざすのではなく、「勝手に治すな自分の病気」と叫びながら、疾患や障害という「苦労を取り戻す」ことを良しとし、それでいて「安心してサボれる職場づくり」を目指し、失敗したときは「今日も順調」と居直り、「昇っていく人生から降りていく人生」と、右肩下がりで問題だらけの人生をそのまま肯定し、そしてなお、力強く生き抜こうとしていることだ。

▽ ユニークな理念やモットーだけではなく、べてるの家を厚労省ベストプラクティス賞に導いた「当事者研究」や全国から数千人も動員するイベント「幻想妄想大会」、東京のショップ「べてぶくろ」を中心に年間数億円を叩き上げる広報力、全てが業界の常識を超越している。しかし、それにもまして素晴らしい事は、三十数年前の開設当初からのすべてがオープンでありのままに行われていることだ。その数においては北海道と肩を並べる障害者就労支援大国愛知県。残念ながら、保守的で閉鎖的な当地は、べてるの家より三十年もの遅れをとっている。

▽ 障害の有無に拘わらず、そもそも誰もが抱える苦しみや怒り、悩み悲しむこと、恨んだり嫉んだり、傷つけ傷つけられること。そんな苦労を我々は取除いてあげようと思ってはいないだろうか。自立や社会復帰といった教科書どおりの支援をしようと思ってはいないだろうか。そんな上辺だけ聞こえのいい支援は要らない。必要なことは、「Let it be! ありのままでいい」すなわち、あえて「支援しないという支援」なのか?

▽ そもそも、障害福祉とは何か?彼らがありのままならば、我々は・・・?もしかしたら「普痛」という病気に侵され、「常識依存症」という障害を抱えてしまっているのかもしれない。

    (Sakai)

ヘルパーはセンスだ

利用者の実習先での話。常に現場を仕切る社長が利用者に竹ぼうきの使い方を教えていた時に、鼻唄混じりにつぶやいた。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ、かぁ」と、矢継ぎ早に「職人の技は目で盗め」と、次第にその声が大きくなるや否や「バカ野郎!お前も指導者なら、社長の気持ちを読んで、先回りして動けよ!」と、私の顔をにらみながらボヤいたのだ。つまり、次からはお前が指導しろということだった。半端なく口の悪いその社長の言葉が、なぜかとても小気味好くて、しっかり脳裏に焼きついてしまった。
考えてみれば、情報産業が製造業を制し、マニュアル至上主義が横行する現代社会において、一般には「やってみせ・・・ほめてやらねば・・・」は、すでに死語なのかもしれない。しかし、相手が障害者ならばどうだろう。これは、動機付けの常套手段ではなかろうか。

次に「目で盗め」即ち「言わず教えず」などは時代錯誤もはなはだしい。しかし、相手がベテラン職員ならばどうだろう。これは、現状に流されることなく新たな動機を喚起させるための有効な一句ではなかろうか。老いてなお気骨あるその社長の言葉には、人の心理を高揚させるインパクトがあったのだ。
さて、福祉の経験は浅いが職人歴約30年の間に培った自分なりの鉄則がある。職人でも職員でもよろしいが、それなりのセンスがないと、その職は務まらないということだ。

では、センスとは何か? 速やかに物事を覚える理解力であり、冷静に物事の本質を見抜く洞察力であり、次々と物事に対処する応用力であり、自ら物事を構築する独創力である。それらが総合的に顔や言葉からにじみ出てくるもの、それがセンスである。必ずしも資格や経験年数ではない。そして、センスはマニュアル(教科書や指示書)によって身に付くものではない。また、一朝一夕で身に付くものではないが、逆に徒弟制度でよく言われている最低10年の修行がいる代物でもない。つまり、受身姿勢では決して身につかず、常に「自分で考え」、時には人の言動を「目や耳で盗む」ものである。これだけは言える。「いい職人はセンスもいい」
では、ヘルパーは職人か? 「はい、それ以上です」と自分自身に言い聞かせている。なぜ、ヘルパーが職人以上なのか、その理由は二つある。

一つ、一般に職人はモノを相手とするが、ヘルパーは人を相手とすること。

二つ、ヘルパーは社会的弱者を幸せへと導く教育者であること。

逆説的に二つだけ悪いヘルパーの例をあげると、一つ目は、センスが乏しすぎるせいで利用者がなつかないヘルパー。センスのなさを利用者に見切られている証拠である。二つ目は、利用者の心身よりも自分の身を案じてしまうヘルパー。利用者本位という職務ポリシーから本末転倒している。
「やってみせ・・・人は動かじ」は山本五十六の名言であるが、その続きをご存知だろうか。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

 もし、彼が一介の軍人ではなく政治家だったなら、不要な戦争など起きなかっただろうに。

 (Sakai)

酒は百薬の長

私ごと、三十才初め頃、仕事によるストレスがたたり、不眠症からアルコール依存症に陥った。加えて肝機能障害も。そして、医師の指示でしぶしぶ酒を断ち、代わりに精神薬を服用するようになった。

ベンゾジアゼピン系精神安定剤、一般的な向精神薬である。ところが、薬で眠ることはできてもストレスは一向に減らず、数年間で煙草の本数が40本へと倍増した。それにも増して薬依存症になっている自分が嫌でたまらなかった。そこで、アルコール性肝障害度を示すγGTPが正常値圏に収まったことを機にドクターにこう切り出した。

「以前は酒がないと夜眠れなかった。今は薬がないと夜眠れない。どのみち飲まないと眠れないなら薬やめて酒に戻して下さい」と、ドクターはすぐに切り返した。「バカを言うな。急に薬を止めたら必ず反動が来るぞ」と、ムッと来た私は「バカはどっちだ!? そもそも石油から出来た物が体に良いわけがない、患者の意思を尊重しろ!」と、ドクターは「わかった、そう怒るな、じゃあ条件を出そう。まず、直ちに煙草を止めること!  それから少しずつ薬からアルコールに切り替えること。できるか?」続けて「酒は百薬の長、煙草は百害あって一利なし」と、私をなだめすかした。

今思えば、そのドクターとのフランクな会話からいろいろ教わった。①心身を狂わせる元凶はストレスである。②酒はストレスを取除く薬であり、かたや肝機能を犯す毒である。いわば諸刃の剣だ。③向精神薬は、一時的対処療法でありストレスは除去できない。また、常習すると薬依存症に陥り、ひいては脳を破壊する。

人間、とかく好きなことにかまけて、我が身の健康をおろそかにしてしまう。酒に限らず、煙草、ゲーム、性風俗、ギャンブルなどは依存症に要注意だ。だから、福祉の現場ではそれらのほとんどを禁止またはタブー視している。そして、ルールを守れない利用者を見つけるとすぐに精神科に連れて行く。これじゃあ医者の思う壺だ。彼らを薬漬けにしているのは何処のどいつだ!?福祉事業所の責任は保護者同等に重いことを我々は自覚しなければならない。

話は戻るが、あのドクターに言われてから二十余年、私は石油合成品(精神薬)を服することなく、米や麦や葡萄から造られた大自然の香り漂う酒を嗜みながら安眠の日々を送っている。

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そして、時々こう思う。そもそも、嗜好習癖を断ち切ることは間違った手段ではないだろうか。なぜなら、嗜好習癖は人間の根源的欲望だからだ。よって、それらを断つのではなくコントロールしていく、すなわち「毒を制して薬となす」方法を我々は学んでいくべきであろう。

 (Sakai)

~Dr.倫太郎はいないのか?~

現代人が抱える心の病、傷ついた心にとことん寄り添うことで、その病める心を次々と解きほぐしていく精神科医のストーリー。「Dr.倫太郎」というTVドラマ(6月に放映終了)にはまってしまった。

仕事柄、利用者を通して複数の精神科医と接触している日常であるが、現実とドラマとのギャップは大きい。現実をみると、たとえば、薬の切れ目で月1~2回程度通院をしている利用者(患者)に対して、診療時間は長くて10分、短いときはわずか10秒で終わる。「調子はどうですか?」「特に変わったことはありませんが…」「それじゃまた2週間後にきて下さい」という具合に。

そして、大量の向精神薬。薬袋にはスナック菓子でも入っているのか!? いや、そのほうがまだましだ。なぜなら、毎日、向精神薬を飲み続けている患者の大半が激太りしているからだ。それでいて、病状に変化がない、または一向に好転しない。ならば、月に一度、かっぱえびせんをもらって食べたほうがよっぽど心身の健康に良いではないか。

かたや、Dr.倫太郎は時間を考えず患者の話を丹念に聞く。そして、原則薬は出さない。何よりも患者に信頼されている。逆に医療報酬など考えていないから、常に病院側と対立する。なぜなら、彼は精神科医である前に精神分析家だからだ。

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しかし、フロイトから受け継がれてきた精神分析学は、日本では社会的地位が低い。いい例として、臨床心理士は未だ国家資格ではない。したがって、彼らは精神科医の助手的な働きしかできないのだ。ひいては国家資格であるケースワーカー(精神保健福祉士)の立場も同じだ。このように、現実は依然としてDr.倫太郎ならぬDr.金太郎が権力を握っているのである。それは、とりもなおさず介護福祉業界と医療業界との力関係といえる。

そもそも、精神疾患と精神障害との違いは何なのだろう。一般論では、疾患は医療的措置が必要な状態、障害は個人的、社会的に介助・支援が必要な状態、である。しかし、現実には双方のダブりは多く、それらの定義区別がどうあれ、患者や利用者が個人的・社会的自立を果たすために何が必要かを周囲の人たちが真剣に考えてあげなければならない。

私たち福祉従事者は、日々利用者と向き合い、その動向を観察している。対して、月に5分や10分程度しか診察しないDr.金太郎に患者の何が解る!? と言いたい。

ところが、そんな医師が書いた1枚の診断書こそ、私たちが行う支援のスタート地点なのだ。そこに介在するはずの行政も盲判係に過ぎない。ここに障害福祉サービスの大矛盾がある。

(Sakai)

一人の声は千人の声

「一人の声は千人の声だと思え」。百貨店勤務の頃、売場統括が常々口にしていた言葉だった。営業、とりわけクレーム対応を経験した方なら体で覚えた格言だ。

例えば、「あなたはいつも対応が遅いね」と言われた売場担当は、そのお客の声が千人の声の集約であると自覚しなければならない。

次に、「高い買物をするんだから、それなりにまけてよ」と言ってきた。百貨店ルールでは 原則、値引きはしない。なぜなら全てのお客に対して公平な取引とならないからだ。したがって、そのお客のわがままだと判断して丁重にお断りするのが望まし い。では、「ここにキズがあるから、それなりにまけてよ」と言ってきた場合はどうか。ルール上は新品に取り替える事になるが、キズを納得の上で、今、その 現物を値引きして買いたいというお客の意図を察知したならば、すぐさま特例として値引きに応じることが正しい対応だ。要するに、ルールではなく、お客が納得するかどうかが重要なのだ。翻って、その声が千人の思いか一人のわがままか、あるいは一つの特例かを瞬時に見極めることが売場に課せられた必要条件なのである。

かたや役所の対応はどうだろう。例えば、「おたくはいつも対応が遅いね」と指摘すると、「待っている人もいるんです」とか「普通は二週間かかるんです」とか「あまねく平等に」という手前都合のルールをかざし、結局その場は何も動かない。

まるで「一人の声は放っておけ」としか聞こえない。

百貨店ではその時点でアウトだ。逆に署名運動などで千人同じ声が集まると態度が一変する。

次に「この利用者が今、困っているので然るべき手続きをして下さい」と相談すれば「それは特殊な事情なので上司と相談してからお返事します」とお決まりの対応。後日「あなたのお気持ちはごもっともですが、なにぶん前例のないことは私どもには出来かねます」

と上司からの返事。言葉は丁寧でも、とどのつまり結果は一緒だ。やはり、「ルールありき」の世界で生きている人は機械的判断しかできないのか。ならば、人間やめてコンピュータロボットと交代してくれた方が応対だけでも早くて正確だ。

 さて、障害福祉サービスを断面的に見ると、前述した百貨店的カスタマーサービスの一面 と、役所的行政サービスの一面との板ばさみで行われるサービスだと考えられる。概して特性の強い障害者は、あのヒット曲の歌詞にある「もともと特別なオン リーワン」といえる。さしずめ「一人の声は千差万別」としよう。そして、その声にどんなサービスで対応すべきなのか。少なくとも言えることは、そこに人間 的判断が伴わないサービスならやる必要はないということだ。           (Sakai)